星野道夫「旅をする木」より ワスレナグサ
<きょうの写経>
これだけ一生懸命やったんだし、相手は自然なんだから、それはしようがないんじゃないかと。
たとえば、あと十年とか二十年とかたった時にふりかえってみて、その番組が少しうまく撮れたとか、撮れなかったなんて、きっとそれほど大した問題ではないと…。
それよりも一日のうち十五分でも三十分でもいいから、仕事のことをすべて忘れて、今ここに自分がいて、花が咲いていたり、風が吹いていたり、遥かな北極海のほとりでキャンプをしていることをしっかり見ておかないと、こんな場所にはなかなか来れないんだし、すごくもったいない気がすると…風に揺れるワスレナグサもそんなことを語りかけているような気がした。
私たちが生きることができるのは、過去でも未来でもなく、ただ今しかないのだと。
(中略)
結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。
頬を撫でる極北の風の感触、夏のツンドラの甘い匂い、白夜の淡い光、見過ごしそうな小さなワスレナグサのたたずまい…ふと立ち止まり、少し気持ちを込めて、五感の記憶の中にそんな風景を残してゆきたい。
何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時間を、大切にしたい。
あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかに感じていたい。
そんなことを、いつの日か、自分の子どもに伝えてゆけるだろうか。
いつまでも眠ることができなかった。風の音に耳を澄ませながら、生まれたばかりの、まだ見たことのない生命の気配を、夜の闇の中に捜していた。
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思い通りにならないことが世の中にはあるのだ。
その当たり前を教えてくれるのが、自然や時間なのだろう。
人間は不可解さや不便さを嫌い、この世の全てを変えてきた。
日々の暮らしは、見事なまでに人工物に囲まれている。
そうした中で、思い通りにならないことを受け入れる精神、
すなわち寛容さがヒトの心から失われていった。
パソコンのエラー一つに、これほどまでに心荒れるというのは異常ですらある。
自然や時間と向き合うことは、寛容さの回復だけではなく「今ここ」を生きることにつながるのだと、星野は言う。
とどまることなく流れ、変わってゆく自然と時間の中で、ヒトもその一部でしかない。
そう思うことで、大概のできごとは、ちっぽけになる。
未来や過去への執着から解放され、苦しみ少なく生きることが出来る。
とはいえ、ヒトはヒトの中で生きて行く。
「何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時間を、大切にしたい。あわただしい、人間の日々の営みと並行して、もうひとつの時間が流れていることを、いつも心のどこかに感じていたい」
空を、見上げよう。
短いヒトの命、時間を心豊かに受け止めていきたい。
仕事で出合ったある人は、星野道夫を「魂の伴侶」と呼んだ。
その気持ちが、よく分かる。
心を洗うきれいな水が、ここにはある。