竹内洋岳「登山の哲学」
頂上に立つ瞬間というのは登山のハイライトでもピークでもありません。頂上を目前にしたときは、息も絶えそうになりながら、数十センチしか進まない足取りを一歩ずつ重ねているだけです。つらくて、苦しいばっかりで、少しも楽しくなんかない。
そんな苦しい思いをしたくて、私は山に登っているわけではありません。★苦しいことも含めた長いプロセスを、いかにおもしろがれるか。「そのひとつの輪の中で記憶に刻まれた印象のすべて」が、登った者だけが知り得るその山の個性なのです★
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ルールがないからこそ、スポーツであるためには自分でルールを定めなければなりません。例えば無酸素で登ることや、シェルパを使わないといったこと。どんな道具を使うのか、どんなスタイルで登るのかといったこと。それらも含めて自分でルールを決め、すべてを公表しなければならない。
★審判は自分自身です。自分にフェアであり、自分でジャッジしていかなければならない★
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もっと根本的なことを言えば、人から「やりなさい」と勧められたことに、おもしろいと感じられるものはほとんどない、と私自身が思っているからです。
山が好きになったのも、「登りなさい」と言われて登り始めたのではなく、祖父に連れて行かれたスキーを通して、山で楽しく過ごすことのおもしろさを自分で感じ取ったからです。
★趣味でも、勉強でも、仕事でも自分から興味を持たなければ、おもしろさの本質に触れることはできない。・・・人に言われたり、人から与えてもらったりしたのでは、自ら探し当てた喜びは得られない★
「言われた通りにやれ」では、自分で考えておもしろがる余地もなくなる。
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二人ともまだ一歳前後のときの話ですから、生活環境や親の育て方でこれだけの違いが表れたとは考えられません。歳が離れているわけでもない。だとしたら、持って生まれた「性分」としか言いようがない。
私が山に登りたくなるのは「登りたいから仕方がない」ことなのです。
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170324生きるということ-要約版
朝昼晩、休憩時間、移動時間。なんども思うことが自分を変えてゆく。心が揺れやすく、悩んでばかりで、誘惑に負けやすい、子供のような自分に語りかけてみよう。
我が子に対する接し方も合わせて変えてみよう。それは、己の中の「小さな自分」への接し方と通ずるものがあるからだ。子供への接し方で上手くいかないところは、己の心を整える上で改善のヒントになる。
1:周りと比べてばかりの小さな自分
心の中にいる、比較対象としての他者を消そう。代わりに、自分の心が満たされる、面白いと思える「目的(仕事)」を都度都度思い返そう。記事、写真などを肌見離さずに持ち、度々見返そう。遠い他者の仕事の方がいい。ゴールに向かう自分を想像すると、意欲が沸き立つ。
96.2 -> 90.0
明日の己に何ができるか。きょう一日を振り返ったり、目標のステップを考えたりして、課題を見つけ、プランを立て、実践しよう。
→朝、昼、夜、仕事、仕事後、休日の課題→habitbull
2:将来への不安を感じたり、過去を悔やんだりで前進できない自分
この先自分はどうなるのだ、キャリアデザインが見えない、華やかな舞台を踏めなかったーなどと、不安や悔しさが募るようなら、過去も遠い未来も見つめない。代わりに今ここの「スタイル」を貫く。★きょう1日を★本気で生きる。いつ、どこにいても変わらない自分こそが、自分なのだ。華やかな場に立った自分が、自分なのではない。逆に誰が見ていない場でも、小さな事に手を抜かない。いま、この瞬間もだ。怠けず、小さな誘惑や不安に負けない1日にする。日々決めたことをやり遂げる。「平凡なことをやり続けることが非凡なのだ」。その足元だけは崩さない。こうして健全な「己」を持てば、自ずと行く先は見えてくる。焦らない。★苦手だけれども、頑張って書く
→五経・九戒律・四善業・七門
3:ダメだしをしてばかりの自分
「ダメだし」をしない。代わりに、違和感のあるものも、まず肯定する。子供のこと、妻のこと、同僚のこと。それは、まず自分の嫌な所からだ。「10年仕事をしてもこの程度。向いていないのかも」「風を辞められない」「誘惑に負けることを繰り返し、成長がない」。できないことはあるものだ。幻の自分を追わず、これまでの、昨日の自分を許す。できたことを見て、褒める。こだわらない、肩の力を抜く。己への眼差しは、他者への眼差しに通じる。気をあらたに前へ進む。許し、責めない。
→アドラー
4:評価や報いばかりを求める自分
幸せや生きがいは、安易に誰かに与えられると思うから不満がたまる。代わりに、幸せや生きがいは与えられるものではなく、まず与えるものだと考えよう。そして、簡単に与えられるものでもないと気づこう。ただ、いつか回り回って自分に帰ってくる報いもあるはずだ。それこそが「生きる希望」だとしたら。自分が目指す仕事の方向も、他者や社会に「生きる希望」を感じる言葉、生き方を伝えてゆくことなのだと思う。
→日々の新聞体験
5:不運だ不幸だと嘆く自分
悲劇の主人公はもう卒業だ。辛い時には下を向かず、代わりに、精いっぱい幸せを感じよう。そのことに罪はない。休むことも良いことだ。大きな幸せは簡単に見つかるものではないけれど、身の回りには小さな幸せがあるはすだ。それらを感じ、楽しむことも、たった1度与えられた命の意義だ。子供たちの笑顔、都会の青空、ひやりした空気、美しい夕暮れ。身の回りに幸せはいくらでも転がっているのに、見えていない自分の心が貧しいのかもしれない 。
170314 生きるということ
何があった訳でもない。
己が、哀しいのだ。
周りと比べてばかりの自分。
夢を見ることばかりで前進できない自分。
心が狭く、ダメだしをしてばかりの自分。
評価や報いばかりを求める自分。
この人生を不運だ不幸だと嘆いてばかりの自分。
足元がぐらつく。
この命への嫌悪感が膨らみ、苦しくなる。
「なんのために生きているのだ」と。
心を立て直そう。
ぐらついている足を、ぐっと踏みしめてみよう。
しっかり立てているはずだ。
落ち着いて考える。
なぜ苦しいのか、己を蔑むのかを。
苦しみながら生きる必要などない。
苦しむのは、己の考え方に原因がある。
5つの視点を改めよう。
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第1に、周囲との競争や優劣ばかり気にしていること。
周りの人間の活躍を無意識に妬んでいないか?
不出来な人間を無意識に哀れんでいないか?
心の中に、常に比較対象としての他者がいないか。
視点を変えよう。
見定めるべきは、周囲ではない。
見定めるべきは、明日の己だ。
まず、心の中に思い浮かぶ知人を消そう。
代わりに、自分の心が満たされる、面白いと思える「目的」を思い浮かべる。
★趣味でも、勉強でも、仕事でも自分から興味を持たなければ、おもしろさの本質に触れることはできない。・・・人に言われたり、人から与えてもらったりしたのでは、自ら探し当てた喜びは得られない★
希望や笑顔を与える仕事。悩みを癒やす仕事。
自分の周りに、そのような仕事を探してみる。自分にもできないか。
そして、そんな目的に向かう「自分」を想像する。
そこに意欲がわきたつ。
自分を変える課題を見つけ、プランを作る。
課題とプランを、誘惑に負けず、真摯に取り組む。
★苦しいことも含めた長いプロセスを、いかにおもしろがれるか。「そのひとつの輪の中で記憶に刻まれた印象のすべて」が、登った者だけが知り得るその山の個性なのです★
不足が見つかれば省みて、さらに改善する。
実にシンプルな日々の繰り返しでいい。
そこに、不安や恥は必要ない。
誰もが、その生き方で、間違いはないのだ。
失敗や不出来があろうと、それも己の道で間違いはない。
周りの道を羨まず、蔑まず、己の道を見つめる。
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第二に、大きな結果や素晴らしい未来を「追いすぎている」ということ。
結果は、大概思い通りにならない。大概が失敗する。
理想や未来や結果を強く思い描くことは、不安を募らせ、心を痛めてしまう。
視点を変えよう。
不安が膨らむようなら、結果や未来を思い浮かべない。
先々の自分ではなく、今ココの姿勢を意識しよう。
日々の戒律・四善業・七門を守ることだ。
きょう1日を精いっぱい生きる。
誘惑に負けず、結果を恐れず、ただ己の「スタイル」を貫く。
スタイルが、結果や未来に揺さぶられない確固とした「己」になる。
先々を見据えることは、前向きになれる時でいい。
内心「あきらめながらも…」ぐらいで、肩の力を抜こう。
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第3に、不寛容が心を占めていることだ。
物事はこうでなければならない。
子供や妻のここがダメ。自分もダメ。
こだわりや、決めつけばかりで、視野が狭くなっていないだろうか。
視点を変えよう。
相手にダメ出しをするクセを辞めよう。
物事一つ指摘するにも「ダメだ」とは言わない。思わない。
大切なことは、まず認めること。それが良かろうと、悪かろうと。
評価を下さず、淡々と「○○なところがある」。
例えば、他者ではなく、自分について。
10年働いたけれど、全く仕事の技量が高まらない。
それは向いていないからだ。肩の力を抜こう。
どこまでも許し、どこまでも責めない。
対象を敬い、寄り添おう。
己のこだわりを捨て、楽になろう。肩の力を抜こう。
それは、他への優しさにつながり、己への愛情にもつながる。
もし人と違う生き方を選びたいなら、
これを最優先の感情とせよ。
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第4に、己の評価や、頑張りに対する報いを求め過ぎていること。
周囲に求めて過ぎている。環境を、機会を、全てを。
際限なく欲は膨らむものであり、それが叶わないと苦しみが生まれる。
視点を変えよう。
回りに求めるのを辞めよう。幸せは与えられるものだ、と思うのを辞めよう。
喜びは与えてゆくものだ。
己のためではなく、他者の幸せを望めた時、人生は前へ進む。
求めなくなった時に、己の苦しみは癒えるはずだ。
多くの人の苦しみを感じとり、解放するにはどうしたらよいのか。
その人が大切にしている思いへの共感を、どうすれば広げられるのか。
誰もが嬉しくなり、元気になれる話題はどこにあるのか。
自分のできる範囲で、自分の頭で考えて、模索してみる。
常に心を素直にして。
ひとりで難しければ、時に信頼できる誰かに助けを求めても構わない。
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第5に、この人生が幸せじゃないと嘆くことだ。
視点を変えよう。
己を悲劇の主人公にしても、何も人生は始まらない。
価値ある命は、既に親から与えられている。
それ以上に幸せなことはない。
この大切な一度きりの人生を、時間を楽しむ権利がある。
大きな幸せよりも、身の回りにある小さな幸せに浸ってみよう。
家族との愛情。自然の美しさ。健康な日々。
幸せについて、誰と比べる必要がある?
己を恥じるな。哀しむな。胸を張れ。
心晴れやかに肩の力を抜き、この人生を歩めばいい。
幸せじゃない、と嘆くことは、己の足元を自ら瓦解させることだ。
この命を懸命に面白がろう。
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周りと比べてばかりの自分 → 知人を思わない。自分の心が満たされる、面白いと思える「目的(仕事)」を思い浮かべる。それは、遠い他者の仕事でもいい。その目的に向かう自分を想像すると、意欲が沸き立つ。課題を見つけ、プランを立て、実践する
夢を見ることばかりで前進できない自分 → 不安になるようなら、遠い未来を見つめない。今ここのスタイルを貫くことが、確固とした「己」を作ってゆく。誘惑に負けない
ダメだしをしてばかりの自分 → 「ダメだし」をしない。違和感のあるものも、まず肯定する。まず自分の嫌な所から。「10年仕事をしてもこの程度。向いていないのかも」。こだわらず肩の力を抜いて。でも、前へ進む。許し、責めない。
評価や報いばかりを求める自分 → 幸せや生きがいは誰かに与えられると思うから不満がたまる。幸せや生きがいは与えられるものではなく、与えるもの。その価値に向け、全力を注ぐ
不運だ不幸だと嘆く自分 → 悲劇の主人公はもう卒業だ。幸せを感じることに、罪はない。大きな幸せが見つからなければ、身の回りの小さな幸せに目を向けよう。それらを感じ、楽しむことが、たった1度与えられた命の意義
視点を変えるだけで、足元はぐらつかなくなった。
己の足元が再びぐらつく時、それは視点が戻った時だ。
脳の神経回路は、いとも簡単に昔戻ってしまう。
新たな考え方や姿勢を身に付けることは、それだけ難しいことなのだ。
だから、毎日毎日振り返ろう。
さて、胸の内の苦しみが消えたとするなら。
改めて考えてみればよい。
自分の人生にとって何が大切か?
たった一度の人生で、何をなすべきか
己の幸せでなく、誰かの幸せのために。
家族。友人。社会
そこで向き合うものは、苦しみでなく、喜びなのだ。
それこそが、己を生きるということだと、もうあなたは気づいている。
この価値ある命に相応しい、己として。